黒門町の歴史と文化紹介シリーズ
21.野口兼資(のぐち かねすけ)
シテ方宝生流能楽師(名人)
1879年(明治12年)11月7日 - 1953年(昭和28年)10月4日。
シテ方宝生流能楽師。難声ながら強靭で気品のある芸風は幽玄で、本三番目物にすぐれ、名人の名をほしいままにした。
尚、難声は若き日の稽古で声帯を痛めたということで、音が断絶する。
本三番目物とは、能の分類の一つ。正式な五番立ての演能の際に、三番目に上演される曲。女性をシテ(主役)とし、優美な舞を見せるもので、鬘物(かずらもの。「かずら(鬘)」を用いるところから能楽で、女性を主人公にした曲)ともいう。
能では主役のことをシテという。シテを演ずる人たちのグループ(シテ方)と、ワキを演ずる人たちのグループ(ワキ方)はまったく別のグループ。
シテ方宝生流は、能楽の流派の一つで、観世流に次ぐ第二の規模を誇る。
宗家初世:宝生蓮阿弥(猿楽師 系図では観阿弥の子、世阿弥の弟。1468年没)、
現在、二十世:宝生和英(ほうしょう かずふさ、1986年 - )。
猿楽は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである 。
🔆著書『黒門町芸話』 (1943年)、『兼資芸談』 (1953年)。
『黒門町芸話』によれば居所(昭和18年)は東京市下谷区西黒門町7。
関東大震災も黒門町で被災。
20.花柳章太郎 (人間国宝)
戦前から戦後にかけて活躍した新派を代表する女形役者。
1894年(明治27年)5月24日 - 1965年(昭和40年)1月6日
本名:青山正太郎
新派(しんぱ)は、1888年(明治21年)に始まった日本の演劇の一派。明治に始まった「壮士芝居」「書生芝居」などをもとに歌舞伎とは異なる新たな現代劇として発達し、「旧派」の歌舞伎に対し「新派」と称された。戦後複数の劇団が「劇団新派」に統合した。
🔆 1952年(昭和27年)の新派大同団結以後は座頭となって劇団を統率し、初代水谷八重子との名コンビによって次々に傑作を世に送りだした。晩年には新派からは喜多村につぐ二人目の人間国宝に認定、文化功労者にも選定された。
花柳章太郎は、一歳四か月の時(明治28年)父親を亡くし、青山家は本銀座から下谷・黒門町の長屋へ移った。その後…。関東大震災時、黒門町の家は焼失した。
#花柳章太郎#新派#水谷八重子#青山章太郎
19.六代目市川壽美藏 後の三代目 市川壽海(人間国宝)
1886年(明治19年)7月12日 - 1971年(昭和46年)4月3日)。
六代目 市川壽美藏(いちかわ すみぞう)1907年(明治40年)3月襲名
三代目 市川壽海(いちかわ じゅかい)1949年(昭和24年)2月襲名
大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は壽海老、替紋は蝙蝠。
本名は太田照造(おおた しょうぞう)。
重要無形文化財保持者として各個認定(いわゆる人間国宝、歌舞伎役者として初)。
🔶 市川雷蔵は、1951年4月市川壽海の養子となる。改名して本名は太田吉哉。
🔶 市川團十郎白猿ブログ2014.9.8八坂神社では
「市川のなかでも團十郎、海老蔵、新之助以外に唯一、成田屋の屋号を許されているのがこの市川寿海です。今のところ寿海も九團次も雷蔵も空席です。野心をもって歌舞伎界へ… 気合いのある若者求!」と綴っている。
下谷繁昌記(大正3年刊)では、「俳優 藝名 市川壽美藏 住所 上野西黒門町 本名 太田照造 年月日 明19.7」と記載されている。
18.落語家 五代目 古今亭今輔
1898年(明治31年)6月12日 - 1976年(昭和51年)12月10日。
新作落語の一つの流れを作りました。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれました。
西黒門町の自宅は八代目桂文楽の家の近くにありました。
17.落語家 「黒門町」の師匠 八代目 桂文楽
1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12月12日。
🔆自宅住所が「東京都台東区西黒門町」(住居表示変更後は台東区上野1丁目)である事から、「黒門町」「黒門町の師匠」「黒門町の文楽」などと呼ばれた。
落語における戦後の名人のひとりといわれ、2歳年上の五代目古今亭志ん生と併び称された。
また近くには、五代目古今亭今輔の自宅もあった。
尚、現在旧宅跡の筋向かいに社団法人落語協会の事務所がある。
16.黒門町は昔より芸能人が多く住んだ町
◇三代目 市川壽海(いちかわ じゅかい)
1886年(明治19年)7月12日 - 1971年(昭和46年)4月3日。
大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は壽海老、替紋は蝙蝠。
重要無形文化財保持者として各個認定(いわゆる人間国宝、歌舞伎役者として初)。
◇花柳章太郎(はなやぎ しょうたろう)
1894年〈明治27年〉5月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月6日。
戦前から戦後にかけて活躍した新派を代表する女形役者。
湯島小学校卒。日本芸術院会員。文化功労者。人間国宝。俳名は、章魚、柳花洞。
◇野口兼資(のぐち かねすけ)
1879年(明治12年)11月7日 - 1953年(昭和28年)10月4日。
シテ方宝生流能楽師。難声ながら強靭で気品のある芸風は幽玄で、本三番目物にすぐれ、名人の名をほしいままにした。著書『黒門町芸話』 (1943年)、『兼資芸談』 (1953年)。
落語家
◇初代 三遊亭円右(さんゆうてい えんう)
1860年8月1日(万延元年6月15日) - 1924年(大正13年)11月2日。
四代目橘家圓喬と並び称される明治期から大正期にかけての名人。
◇八代目 春風亭柏枝(しゅんぷうてい りゅうし)
1905年(明治38年)12月15日 - 1959年(昭和34年)10月8日。
◇五代目 古今亭今輔(ここんてい いますけ)
1898年(明治31年)6月12日 - 1976年(昭和51年)12月10日。
◇八代目 桂文楽(かつら ぶんらく)
1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12月12日。
自宅住所から、「黒門町」「黒門町の師匠」「黒門町の文楽」などと呼ばれた。
落語における戦後の名人のひとりといわれた。
15.樋口一葉
小説家への基礎を創った「萩の舎」入門は西黒門町から始まる
(1872年(明治5年)~1896年(明治29年))
下谷区上野西黒門町20番地
居住期間=明治17年10月1日~21年5月26まで
(12歳~16歳の約三年半、一家で居住)。
下谷区上野西黒門町20番地の家を百二十二円五十銭で購入。
生涯15回にわたって転居、6度目の転居先である。
明治19年14歳で「萩の舎」(現在の文京区春日にあった中島歌子が立ち上げた和歌と書を教える私塾)に入門。
萩の舎は、公家・旧大名などの旧体制名家、明治政府の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通い、門人は千人を超える歌塾だった。一葉は萩の舎で上流階子の子女に交わりながら、歌や書、そしてその基礎教養として 八大集や「伊勢物語」「源氏物語」「枕草子」などを学んだ。
<当時の樋口家>
父則義は警視庁の警視属として月給二十円の収入のほか、金融業での副業でも収入があった。
家族構成=父則義、母たき、兄泉太郎、一葉、妹くに の五人家族
※兄泉太郎は西黒門町時代の後半、明治20年12月27日に肺結核で死去
14.下谷警察署(現、上野警察署の前身)
五千分の一東京図測量原図 1883(明治16年)~1884(明治17年)頃
(出展)農研機構農業環境研究部門
13.警視庁創立150年 明治7年(1874年)黒門町に下谷警察署開設
明治維新後、石川家上屋敷は、内務省警視局の用地となりました。
その後明治5年、第5大区第3、4、7、10小区巡査屯所が設置され、明治7年(1874年)1月15日、警視庁の設立に伴って、同年1月29日、上野西黒門町3番地(旧石川邸)に下谷警察署が開設されました。
これが後の上野警察署の前身の下谷警察署です。
明治13年、赤レンガ造り二階建ての洋式庁舎となります。
12.池波正太郎生誕100年記念イベント
令和5年6月24日~7月7日
池波正太郎生誕100年記念ノベルティを黒門町商店会10店舗にて配布しました。
ノベルティ
・池波正太郎作 絵画記念カード
ひわ茶色の女頭巾
田毎の月
料理茶屋(井筒)の仕出し弁当
初鰹を捌く「髪結新三」の魚や
蚊遣り、江戸時代の豆腐売り
江戸末期天ぷらの屋台
江戸のしる粉売り
オーストリアの民俗弦楽器(ツイター)他
・池波正太郎生誕100年記念付箋
・池波正太郎生誕100年記念ボールペン
11.池波正太郎作品 「鬼平犯科帳 五月闇」
~鬼平犯科帳 五月闇~
火付盗賊改役長谷川平蔵の密偵伊三次は、昔 名古屋で盗賊をしていた頃、強矢(すねや)の伊佐蔵に厄介になっていたが、もめ事を起こし恨みをかっていた。
<今は改め、伊三次は「狗(いぬ)」と蔑(さげす)まれる密偵の翳(かげ)りは少しもなく 長谷川平蔵が深く信頼していた男である>
ある時伊三次は、下谷広小路から新黒門町、御成街道へ入ったところで、伊佐蔵に襲撃され瀕死の重傷を負い石川日向守屋敷に担ぎ込まれる。
そして、長谷川平蔵に知らせが入り、与力・佐嶋忠介(さじまちゅうすけ)と石川屋敷に向かう。
平蔵は、伊三次の枕元(まくらもと)に詰めて回復を願ったが、虚(むな)しく息絶える。
のちに 盗賊・強矢(すねや)の伊佐蔵は摩利支天横町で長谷川平蔵により御用となる。
10.池波正太郎生誕100年記念講演
『池波正太郎が描いた新黒門町界隈』 池波正太郎記念文庫 鶴松 房治 先生
令和5年6月24日 東京新潟県人会館
鶴松 房治 先生ご紹介
池波正太郎記念文庫(台東区立中央図書館内)、池波正太郎真田太平記館指導員。
明治大学文学部・演劇専攻卒業後、劇団新国劇に入団。数々の池波正太郎作品で演出助手を務める。池波正太郎没後は、資料や作品の整理・保管を一手に任され、それと並行して池波作品に関する講座を上記二館ほか各地で行い、普及活動に貢献。
池波正太郎は黒門町界隈(池之端、上野広小路、上野1丁目など)を舞台とした作品を多く手掛けています。
黒門町は鬼平犯科帳全135話のうちの一つ「五月闇」の舞台になっており、作中に江戸時代の石川家屋敷、御成街道(現中央通り)、新黒門町、下谷広小路など、当地域の名称が数多く登場します。
9.日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地
明治21年4月13日「可否茶館(かひさかん)」開業 【創始者 : 鄭永慶】
🔸当時新聞に掲載された開業案内広告
遠からん者は鉄道馬車に乗って来たまえ、近くはちょっと寄って一杯を喫したまえ、そもそも下谷西黒門町二番地(警察署)隣へ新築せし可否茶館といって、広く欧米の華麗に我国の優美を加減し、此処に商う珈琲の美味なる、思わず腮を置き忘れん事疑いなし、館中別に文房具、更衣室、あるいは内外の遊技場を整え、また内外の新聞雑誌縦覧勝手次第にて、その価の廉なる只より安し、咲き揃う花は上野か浅草へ歩を運ばせらるる紳士貴女、幸に来臨を添うして、当館の可否を品評し給えかしと、館主に代りて鶯里の思案外史、敬ってもうす。・・・
🔸この茶館の常連、高橋太華翁の談話
この店を我々学生は、コーヒー茶館といっていた。御成道から少し奥まった所に門があり、門を入ると👉青ペンキ塗りの二階建ての洋館がそれであった。入り口は硝子のドアであるようにおぼえている。入るとすぐに玉突きがあり、我々はよく、何も飲まずに玉だけついて戻ることもあった。二階が喫茶室で、テーブルは丸のも四角のもあった。椅子は普通の藤イスで、壁には壁紙がはられ、天井にはランプが吊るされていた。女給といっても、普通の少女がいた。
・・・・
洋酒もビールもあり、日本の酒も注文すれば出した。一品料理、パン、カステラなども出た。当時、可否茶館に行くと言えば、ハイカラであった。 (日本最初の喫茶店 参照)
8.お祭り 五條天神社大祭
五條天神社(上野公園)から鳳輦・神輿巡行が行われました。
令和5年5月28日(3年毎に行われます)
7.盆踊り 黒門小学校
上野地区盆踊り大会が黒門小学校校庭で行われました。
令和5年8月4日 (毎年実施されます)
6.不忍池 Peace of Light
黒門小の子どもたちとつくる光のトンネル
👉地元・黒門小学校の6年生たちがプログラミング。
未来への希望の光で、桜並木を照らしました。
2023年10月21日・22日
5.台東区立黒門小学校
黒門小学校の創立は、明治34年5月7日に仲徒尋常小学校として仲御徒町1-3579番地に開校しました。現在の御徒町駅の西側辺りです。明治43年(1910年)に仲御徒町から当時の西黒門町5番地に移築し、黒門尋常小学校となりました。
江戸時代から日本を代表する繁華街である上野の街をそっくり学区域に持つ小学校です。
校舎は、都内でも少なくなった関東大震災後の復興小学校(昭和5年7月完成)を現役の校舎として使用していて重厚な雰囲気を醸し出しています。当時の最先端の防災対策を施して建てられました。
(現在、台東区内で小学校として使用されている復興小学校は黒門小学校、東浅草小学校の2校舎のみです)
また建築当初からある地下の防空壕と二宮金次郎像もそのまま残っています。
2019年校舎大規模改修工事が数年をかけて終了し、竣工当時のデザインを可能な限り復元。天井に隠されていた廊下のアーチも昔のを取り戻しました。見た目の優雅さだけではなく、RC造(鉄筋コンクリート)の強度を補強する意もあるとのことです(日本経済新聞2023.8.27より)。
4.学問のみち 湯島天神~黒門小学校前~御徒町
湯島天神男坂口から黒門小学校前を通り、御徒町昭和通りまで続く約700mに渡る江戸時代の古道が2017年11月に「学問のみち」と命名されました。
学問の神様として知られる菅原道真公を祀る「湯島天神」へ繋がる道であることから、道沿いのエリアを学業に縁深い街としてアピールし、地域の活性化につなげたいという想いが込められています。
尚、学問のみちの起点である👉男坂口石鳥居は、石川家5代当主石川主殿頭憲之が、寛文九年(1669年)五月に建立しました(湯島天神誌より)。
錦絵に描かれている石鳥居を見ると立派な鳥居で当時の様子を想像いたします。
また男坂下には石川家上屋敷があり、屋敷内にあった稲荷は箭弓稲荷として現在も存立しており、学問のみちを通して歴史を眺めることができます。
3.箭弓稲荷神社 徳川家光時代 石川屋敷内「銀杏稲荷」から続くと言われています
御由緒 鎮座の年月由緒は不詳ですが、往古より石川主殿頭成之の屋敷内に鎮座して徳川家光公より銀杏の木を拝領し後「銀杏稲荷」と言われました。
明治維新後、石川家上屋敷に鎮座していた銀杏稲荷は、廃藩置県により此の地が民家に移ったため神社は放置されましたが、その後、故松山治郎吉氏と町内の方々により箭弓稲荷としてお祀りするになりました。箭弓稲荷は、100年以上の歳月に渡り、黒門町の多くの方々によりお守りしている神社であり、この地域の歴史的文化的な価値を持っています。
また江戸時代から続く「石川家上屋敷の銀杏稲荷」として、黒門町唯一の史跡でもあります。
明治41年発行の新撰東京名所図会には「銀杏の老樹二株聳立して。其の下に小祠あり。」との記述があります。この文献は東京の名所などを紹介したもので、この地域において「銀杏の木」のことを記しているものはこれが唯一です。
その後、関東大震災で神社と御神木は焼失してしまいましたが、昭和3年、御神木の一部より木材を切り出し、御神体と社殿を再建しました。
昭和20年、戦争による東京大空襲では、奇跡的に焼失を免れています。
2.石川家 大名屋敷 現)黒門町 東都下谷絵図
石川家は三河武士として長く徳川家に仕えてきました。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では徳川の重臣:石川数正(俳優、松重豊さん)が活躍しています。
黒門町は、石川家成(数正の叔父、徳川家康の母方の従兄)の子孫が屋敷を構えた地です。
1603年江戸幕府ができた時は、江戸城三之丸に屋敷を構えていました。
当時江戸城三之丸には多くの徳川家康:重臣の屋敷がありました。
3代将軍徳川家光時代の1625年(寛永2年)に寛永寺が創建され、翌年門前町として新黒門町が起立します。
その後、石川忠総(4代目当主)のとき1634年(寛永11年)に屋敷替があり当地に上屋敷を構えるようになります。
石川家は、伊勢亀山藩6万石譜代大名として明治維新1868年(明治元年)まで230年余り当地に上屋敷を構え下谷、寛永寺等において将軍の警護などを行っています。
(補足)
石川家成は徳川三河時代に西三河の旗頭になった後、今川氏没落により掛川城主に任命された為、その地位を数正に譲りました。東三河の旗頭は酒井忠次が務めています。
江戸幕府初期は、家成(初代当主)の子である石川康通(2代目当主)が江戸城三之丸に屋敷を構えました。
尚、家成は1580年に家督を康通に譲り隠居していましたが、康通が死去したため1607年再び家督に復帰(3代当主)となり、1609年他界します。
1.高札型案内板『 池波正太郎作品の舞台 大名・石川日向守の屋敷 』(黒門児童遊園)
江戸時代「大名・石川日向守の屋敷」は、上野1丁目(黒門町)の殆どを占めていた屋敷であり、その一角に「新黒門町」という町がありました。現在、黒門町といわれているのは、この町名から由来されております。
高札型案内板は、池波正太郎生誕100年(2023年)を機に鬼平犯科帳、剣客商売など池波作品に登場した区内16箇所に「池波正太郎作品の舞台」として設置され、作中の様子や背景などを通じ、その地域を紹介しています。
上野広小路界隈では当案内板が唯一で、上野地区では他に上野公園文化会館前に剣客商売「寛永寺・車坂」の案内板が設置されています。
上野1丁目は鬼平犯科帳全135話のうちの一つ「五月闇」の舞台になっており、作中に江戸時代の石川家屋敷、御成街道(現中央通り)、新黒門町、下谷広小路など、当地域の名称が数多く登場します。